新潟美妓列伝
(第一回) 郷土史研究家 藤村 誠
庄内屋しんと初代萬代橋
初代萬代橋の架橋された明治十九年当時、古町通八・九番町は妓楼の密集する新潟最大の花街であった。中でも、現在の古町通九番町保盛軒の所にあった庄内屋は三百余坪の敷地を占め、古町花街有数の大妓楼であった。
明治六年、東堀通七番町で生まれた風間シンが、庄内屋の女主人佐藤マチに請われてその養女となり、佐藤シンと改名したのは、明治十四年数え九歳の時である。
【写真1】庄内屋しん さて、この佐藤シンが庄内屋しんの芸名で古町花街へ華々しくデビューしたのは数え十三歳の時。明治十八年十月二十一日発行の絵入新潟新聞は、「豪気な顔見」と題して、庄内屋の女主人が千円もの大金を投じ、その後長く古町花街の語り草となった庄内屋しんの豪華なデビューの様子を詳細に報じている。
彼女について、明治十九年刊行の「新潟芸娼妓略伝」は、「容顔極めて美しく色は白雪を欺き、梨花一枝春雨を帯る風姿あり。長唄を能し見る人其愛すべきを覚ゆ。当時最も流行の芸妓なり。」と讃美している。「梨花一枝春雨を帯る」とは、楊貴妃を詠んだ白楽天「長恨歌」の一節を踏まえたもの。しんの風情を楊貴妃のそれに譬えた「略伝」の紹介が決して誇張でないことは、洗い髪スタイルの彼女十三歳当時の[写真1]を見ていただければ「なるほど」と納得されるであろう。
【写真2】柳原前光 ところで、初代萬代橋架橋の明治十九年当時、伯爵柳原前光[写真2]は、賞勲局総裁として、また妹愛子が嘉仁親王(後の大正天皇)の生母であることで、世人によく知られていた。古町花街に何度か遊んだ彼は、見るからに可憐な数え十四歳の美女しんのたおやかさに、たちまち魅了される。
【写真3】八木朋直 一方、萬代橋を架けた八木朋直[写真3]も、まだ雛妓の時からしんの大ファンであった。朋直が「萬代橋」という橋名の揮豪を前光に依頼する当り、二人の間を取り持ったしんの斡旋が大いに功を奏したという。この初代萬代橋の親柱に掛けられた鉄板の橋名板は、現在新潟市旭町にある日本海タワーのロビーに展示されている。
架橋完成後間もなく、前光は大金を投じてしんを落籍し東京麻布の本宅に連れ帰る。
明治二十三年前後、病臥することの多くなった前光の許しを得て、しんは新潟に戻り再び左褄をとる。しかし、夢幻にも似た波瀾と光彩の少女期を送った彼女には「もう一花」の欲は、さらさらなかった。明治二十七年の前光死去後は、芸妓も廃業し、新進の舞踊家である義妹の藤間静枝(後の藤蔭静樹)の面倒をみること、因縁の深い八木朋直との親交を温め続けること、その二つを大切にして、穏やかな明け暮れを過ごし、昭和十三年数え六十六歳で死去した。
(写真は新潟市西堀前通 佐藤毬子氏所蔵)
◆次回は…古町芸妓の出身で伯爵夫人となった踊りの名手、三の町(現在の古町通六番町)きっての大妓楼会津屋のるん(三会るん)を取り上げます。ご期待ください。


